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令和二年の法要

ウィズコロナでの法要


 

亡き父の命日が3月27日、母が4月20日で例年はこの間に亡父亡母の法要を行うのが常でした。

しかし今年はこの間緊急事態宣言が発せられ、家族揃って法事を行うことができなくなりました。

 

緊急事態宣言後であれば、少し時期をずらせば、お盆の頃であれば家族揃ってご先祖様へのご供養が出来るかもしれないと思っていたのですが事態は一向に好転ぜず、今年は家族揃っての行動は無理かもしれないと考えるようになりました。

 

 

 

 

 

 


 

例年の家族揃って命日法要、みちのく墓参りも無理とわかって、今年はbabarinaと二人で自宅の仏前で墓参りを兼ねた法要を行いました。

 

僕は土日以外の毎朝、開経偈(かいきょうげ)、懴悔分(さんげもん)、三帰礼分(さんきらいもん)、摩訶般若波羅蜜多心経(まかはんにゃはらみったしんぎょう)、大悲心陀羅尼(だいひしんだらに)、四弘誓願(しぐせいがん)、在家略回向(ざいけりゃくえこう)、普回向(ふえこう)の八つのお経を唱えています。

 

法要といっても年忌法要以外は僕が自宅の仏前で上記のお経を唱えされていただくのですが、毎朝やっているのと同じです。

しかし多分大半の仏教徒は毎日お焼香して手をあわせても読経まではしていないように思います。それを前提にすると我が家では毎朝法要していることになる。。。

 

ですから特に命日、お盆でも行うセレモニーは一緒です。

 

 

 

 

 

ご贔屓の料亭で偲ぶ会


 

ここからが毎朝との違い。

外に食事の場所を準備して、故人を偲びながら法要を共にした人たちと食事をする、この法要から食事をしながらの偲ぶ会までを法事と呼びます。

 

今回も例年であれば4月に家族で寄せていただいたであろう、ご贔屓にさせていただいている料亭でbabarinaと二人で、亡き父母、そして今年三回忌の亡き姉の偲ぶ会を行いました。

 

 

 

 

 


 

先付は養老豆腐に蛸の燻製をのせて雲丹の餡をかけたもの。

 

見た目にも涼しげなこの一皿は、前後に巻き上げ気味の変わった形の冷たい器に綺麗に盛り付けられ、山芋とスモークされた蛸の食感の違いがよく、そこに濾された雲丹の滑らかな旨味がまとわりつく美味しい一皿でした。

 

 

 

 

 


 

八寸はパプリカとクラゲの酢の物、縮緬雑魚の寒天、蕗とアワビ?それと何かの小魚の甘露煮(笑)

正直覚えきれない>_<

 

店内全てが個室の高級料亭だけあって器でも楽しませてくれます。周りに幸くが施された硝子の台座の器は見るからに高級そうです。

 

イタリアンでいえば八寸はアンティパストミスト。

海のものと山のもの、歯ごたえと歯触りの食感の違い、野菜の甘みと魚の内臓の苦味と対局の特徴をきっちり使い分けた、計算され尽くした先にある美味しさです。

 

 

 

 

 


 

今回の椀物はお初のもの、なんと豚の角煮の吸い物です。

 

説明を受けた時にえっ!と思わず声が出てしまいました。豚の角煮は蓋物などで食したことはありますが、汁物で供されたのは初めてです。

 

出汁に使われたのは松茸。そして浮かせていたのはカボスでしょう。

一番出汁に豚の角煮の旨味と脂が加わり、そこにかすかに松茸の風味。くどくなりそうな豚の脂をカボスが抑えていて、実に美味しい新しい発見でした。

 

 

 

 

 


 

お造りはメジナとマグロ。

メジナの旬は冬だったと思いますが、強くない食感のあっさりした味は夏にもむいてます。

 

グラスに供されたのは海老素麺。

海老を練りこんだ素麺ということで旨味と食感がクセになる美味しさでした。お見事です。

 

 

 

 

 


 

鉢肴、焼き物は鮎の塩焼きでしたが、これも度肝を抜かれました。

中居さんが持ってきたは一辺が60cmはあろうかという大きな漆黒の漆塗りの器、というよりも台。まるで何かのステージ、キャンパスのようでした。

 

僕とbabarinaの双方から見えるように座卓の上に置かれたその器には、漆黒の上に純白の塩だけで描かれた滝の絵、遠景には山も見えます。

その滝の下にはまるでその滝のある川を優雅に泳いでいるように配された鮎の塩焼きが。

一瞬言葉を失いました。そこにあるのは料理というよりも芸術です。

 

鮎はあたかもい身をくねらせて泳いでいるように焼かれていて、その「食することのできる芸術」にしばし目を、そして心を奪われていました。

 

身厚で完璧な焼き加減、塩加減の鮎は過去に食べた中で一番と思えるもので、蓼酢で食べるとまた違った少し複雑でかつ爽やかな風味が口の中に広がります。

川魚の中で一番好きな、正確には他は好んで食べない中での鮎ですが、香魚だけあって色も香りも身もやはり繊細です。

最高の食材が匠の技と出会うと芸術の域にまで達することを目の当たりにした鉢肴でした。

 

 

 

 

 

 


 

蓋物は夏の食材、鱧です。

 

鱧といえば梅肉で、というのが僕の中での定番でしたが、出汁に松茸と牛蒡、そこに骨切りした鱧を入れてふわふわの卵で食べるという、これもお初の鱧の食べ方でした。

 

根菜の中でも特に土臭さが出る牛蒡、確かにそこが牛蒡の特徴でいいのですが上手に処理しないと朴訥な味になります。多分十分に水にさらして土臭さをかなり消したであろう牛蒡と、松茸の上品さが出汁に滲み出て牛蒡をつかているのにとても上品な味でした。

 

 

 

 

 


 

揚げ物も驚きました、これもお初です。なんと鰻のかき揚げです。

抹茶塩ともろ味噌で食せます。

 

天ぷらは食材の鮮度とそれへの仕事、そして食材ごとの衣の付け方と揚げ加減のハーモニーと難しい料理ですが、それらが高次元でバランスされていて、ホント美味です。

僕は天ぷらは塩でさっくり食感を楽しむ方が多いのですが、まるでカウンターで揚げたてを食べてるようなさっくり感にはいつもながら驚かされます。

 

人参や玉ねぎの甘みと食感以外に、少し脂が乗った動物性の甘みが広がり鰻感が口の中を支配していきます。

天ぷらといえばアナゴですが、これは天つゆを吸わせて最初から最後までアナゴを楽しむのがよしですが、鰻は上品に他の食材とかき揚げにして、塩でその存在感を確認するような食べ方がよしと感じました。

 

赤と緑のピーマンとフルーツトマト、白うりもさっぱりしていて美味しかったです。

 

 

 

 

 


 

いつものように食事は炊き込みご飯と稲庭うどんから選べます。

今回は鯛めしと松茸ご飯のご用意が有りますとのこと。迷わず松茸ご飯を選びました。

 

この料亭の売りの一つに先物を楽しませてくれる、というのがあります。

早春からたけのこご飯を選べ、春には水菓子で西瓜が供される。今回は松茸ご飯とのことです。

 

釜で炊き込まれた松茸ご飯の楽しみ方の一つは、蓋を開けた時に広がるかぐわしい香り。これだけで幸せな気分に(笑)

松茸ご飯の美味しさはいうまでもありません。味の大事な要素に香りがある、ということを再確認させてくれます。

 

ぬか漬けの白菜、胡瓜も程よく、ここでは珍しいと思った奈良漬けも強めの味が松茸ご飯にいいアクセントになってました。

留椀の蓴菜の食感が珍しく、また夏らしさを演出してました。

 

 

 

 

 

 


 

水菓子はメロンに甘夏柑の羊羹という珍しいもの、そして一口のシフォンケーキとどら焼きでした。

 

甘夏柑の羊羹も初めて口にするものですが、柑橘系だけが持つ甘すっぱさ加減がよく、夏場の羊羹ははこっちの方がいいですね。

 

 

 

 

 


 

食事をしている間、亡き父母、そして姉との思い出話に花が咲きました。

 

太っ腹で行動力があり人情味溢れてた母

文化人のようでアイデアマンだった父

流行り物好きで翔でるのに涙もろかった姉

 

そして本来はその場にいるはずだった娘達の話も出ました。

また僕とbabarina二人での思い出話も出て、時はあっという間に過ぎていきました。

 

やはり家族、ファミリーはかけがえのない、一番大切なものですね。

 

 

 

 

 

「新しい日常ver1」で終わらせるために


 

 

 

店に入る前に気が付いたことが、それまではなかった門扉の前にランチのメニューがメニュー板として置かれていました。二千円代、三千円代と比較的手頃な値段で料亭の味が楽しめます、という感じでした。

これもコロナの影響でしょう。

 

そして暖簾を潜って玄関を開けるとマスクをした和服の中井さんがお迎えです。

そこですぐに出されたのが消毒液でした。

 

今回用意していただいた部屋は一階の奥の4〜6人向きの部屋でしたが、そこで見たものは正面で向き合わないように互い違いに配された座椅子でした。そして座卓には場に不釣り合いなアルコール消毒剤が置かれていました。

 

お会計の際に全てが美味しかった料理への謝意を伝えながら、親方と少しお話をさせていただきました。親方は、厚労省が選んだ「現代の名工」の一人です。

親方曰く、コロナで飲食業、ホテル業は大変なことになってるとのこと。

三密防止で五十人入る宴会場は席数を半減し、他の個室も右倣え。レジのシート、角室の消毒と換気の徹底とキャパは減らし衛生管理の仕事は倍増しているのに来客は半減の半減とのこと。

 

このままではコロナが収束してみんなが移動できるようになっても、その時に宿泊できるホテル、旅館、それに食事を提供するレストラン、食堂などの料理店がなくなっているということになると、訴えていました。

 

あってはならない、でも事実、いずれ来る現実に近いものだと思います。

 

 

 

 

 


 

緊急事態宣言が解除されてから今は緊急事態宣言中を凌ぐ数と勢いで感染者が広がっています。

今は第二波であるかないかが論じられたりしますが、そんなことは本質的なことではありません。

 

二波であろうがなかろうが、重症者が少なくなってようがいまいが、軽症化してようがしてまいが、それは自分ではコントロールできない問題です。

自分がコントロールできないことに気を揉むことを無駄といいます。

 

私たちはこの時代に今自分ができるコロナとの戦いで考えられる、出来ることを淡々と継続していくことが大切です。

それはマスクの着用、手洗いの励行、三密の回避です。

さらに自分なりに考えて情報を集めて、家族でもタオル、歯磨き粉などの共用の禁止、コロナに負けない手の利用、日傘の利用をしていくことです。

 

こういった凡事の徹底率を上げること以外に私たちにはできないのです。

 

それが、そうやって少しでも感染させないしないという姿勢の徹底が増えることが、病院でコロナの最前線で戦ってくれている医療関係者の方々に、不特定多数との接触を回避できないスーパーのレジや宅配業の職業の方々への具体的な感謝の表れでもあります。

 

GoToキャンペーンも賛否両論あるでしょう、医療関係者の立場と経済学者の立場でも答えは違って来るでしょう、マクロな見方とミクロな視点でも違うでしょう。

でも一つ言えるのは結論がどうあれ、今言ったようなことを皆んなで徹底すれば、問題化しない問題も多いであろうということ。

 

今、私たち一人一人が高いい意識を持って、感染しないさせないの行動を取らないと、より行動が制限される、今よりさらに生きづらい「新しい日常ver2」になる可能性が高いです。

 

過去を思い返しても変えられません。

未来を夢見ても所詮仮定の産物です。

今を、今現在をどう生きるかです。

 

未来は今のという原因の結果なのです。

 

手遅れになる前に、今一度。

 

 

 

 

 

お盆休みは「大人の夏休み」

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